東京下町温泉散歩

  

まさかの閉館、水月ホテル鴎外荘

 花吹雪のなか、上野公園を抜けて根津方面へ。上野動物園の裏手の道を行くと、左手に「水月ホテル鴎外荘」の建物が見えてくる。薄い褐色の天然温泉を有するお宿で日帰り入浴も可能だったため、上野や谷根千を訪れたときに何度も立ち寄り湯をした。地方から友人が来たときには一緒に泊まり、都内を案内したこともしばしば。
 中庭にある鴎外旧居は、森鴎外が新婚時代を過ごし、名作『舞姫』を執筆した場所。築約130年のとても風情がある日本家屋で、ここでお宿のお料理をいただけるようになっており、いつか着物好きな友人たちを誘って会食をしたいと思っていた。
 創業80年を誇る老舗宿は、いつまでも変わらないと思っていたのだが…、コロナ禍で2020年5月31日に一時閉館。その年の11月には鴎外旧居を維持するためのクラウドファンディングを開始。その後、2021年5月下旬より素泊まり宿泊のみ再開したものの、温泉は休業。2021年8月に温泉を再開し、予約制で日帰り入浴を受け付けていたので、いよいよ本格始動かと喜んだのもつかの間、2021年10月15日正午をもって完全閉館というニュースが飛び込んできた。
 なじみの温泉がなくなってしまうのが名残惜しく、閉館間際の10月10日に再訪して、館内の風景や温泉を目と心に焼きつけた。
 名物女将のみさ子さんも表に出て、お客さんたちに積極的に声をかけている。鴎外旧居も、みさ子女将自らご案内いただき、最後にいい思い出ができた。ここまでの紆余曲折をみると、大変なご苦労と葛藤があったことが推測される。一緒に写真を撮っていただいたときに少しお話をしたが、約80年続いた宿の幕引き後も、鴎外旧居を遺すためにやることが山積みだとおっしゃっていた。宿で使用していた食器の頒布会で可愛い器を少し分けていただき、断腸の思いでお宿を後にした。
 あれから半年、玄関には簡潔な閉館の案内文が貼られていた。建物がそのまま残っているだけに、胸中複雑な思いが渦巻く。

突然の廃業、六龍鉱泉

 鴎外荘のすぐ裏手には、温泉マニアには有名な「六龍鉱泉」という歴史ある温泉銭湯があった。東京都は蒲田周辺には黒湯が特徴的な温泉銭湯が多いものの、そのほかの地域にはあまりない。
 六龍鉱泉は、台東区では貴重な温泉銭湯だった。浴槽には、ビックリするほど熱い真っ黒な温泉が注がれ、マニア心を惹きつけていた。特濃激熱の六龍鉱泉に入り、マイルドな鴎外温泉で仕上げるというのが楽しみであった。
 その六龍鉱泉が突然廃業したのが、2020年8月14日。創業から約95年、常連さんも驚くほどの急な出来事だった。廃業理由は、長年湧き出ていた鉱泉が一夜にして枯れてしまったこと。廃業の張り紙を見て、愕然とした人が多かったに違いない。
 鴎外荘の閉館の張り紙を悲しい気持ちで見た後、恐る恐る六龍鉱泉に至る細い路地に入ってみた。すると、目の前には広い更地が…。唐破風の立派な銭湯の建物は、跡形もなく消えていた。近くにある交番の前にいた巡査さんに尋ねてみると、つい最近取り壊されたとのこと。
「温泉が出なくなっちゃったってねぇ。ここへも聞きに来る人が多いよ」
 廃業を知ってはいたものの、更地を目の当たりにするとショックだ。あの熱湯風呂にもう一度浸かりたかった…。

浅草の温泉跡地へ

 鴎外荘と六龍鉱泉の跡を見て、浅草の温泉の思い出がよみがえってきた。まずは、温泉銭湯の「蛇骨湯」跡へ。
 狭い路地にある蛇骨湯は、温泉マニアの間では人気の銭湯だった。狭い浴場には、浅草のお歳を召したお姐さんが必ず入っていて、マナーが悪い客に一喝していたのが怖いながらも小気味よかった。温泉仲間とのオフ会ではこの湯に入った後、老舗お好み焼きの「染太郎」で温泉談義に花を咲かせながら、名物のしゅうまい天に舌鼓を打ったものだ。染太郎は健在だが蛇骨湯跡は更地になり、工事中の看板にはマンションが建つと書いてあった。
 続いて「浅草観音温泉」を目指す。浅草寺横から花やしき方面に向かう途中にあったこの温泉は、蔦の絡まった古い建物が異彩を放っていた。昭和32年開業の館内は激レトロな異空間で、浴室のタイル絵の人魚に乳首まで付いていたのが印象に残っている。いつも主のようなおばあちゃんがいて、若い子には指導が入りこれもまた強烈だった。
 ボイラー故障のため2016年6月に閉館。すでに建物は取り壊され、新たに工事が始まっていた。背後にそびえるのは、ドーミーイングループの「御宿野乃」という天然温泉を有する綺麗なホテル。観音温泉跡地には、ここの別館が建つという。詳細を聞きたくてフロントの方に尋ねると、開業がいつになるかは未定とのこと。大人気の宿らしく、フロントはチェックアウトの若者たちでごった返していた。きっと別館もこんな雰囲気になるのだろう。

裏浅草から温泉銭湯を目指す

 あ〜、思い出の場所がどんどん消えちゃったよ(泣)。まだ温泉に一回も入れていないじゃないか! こんなことじゃいかん!と、浅草寺裏からズンズン歩いて吉原方面へ。裏浅草はちょっと独特で怖いイメージがあったので、今回が初散歩。そんな先入観があるせいか、吉原方面に北上するごとに空気感が変わってくるように感じる。
 幹線道路沿いに、漫画『あしたのジョー』のオブジェを発見。ここは、矢吹丈の第二の故郷、山谷地区だと気付いた。目指すは、日本堤にある「湯どんぶり栄湯」。昭和二一年に「栄湯」として開業の老舗銭湯だが、2017年に大規模リニューアルをして、露天風呂や壺湯、サウナなどを増設し、小規模な健康ランドといった感じで若い客層にも人気のようだ。
 創業時から使用している軟水の地下水を2015年に分析したところ、温泉法の温泉に該当するという結果が出て、2017年のリニューアル時から「天然温泉」を名乗るようになったとのこと。
「でも、昔からずっと同じ地下水を使っているから、何も変わっていないんだけどね〜」
と、お店の方は笑っていた。
 ナノファインバブル機能が付いた露天風呂にそっと沈むと、柔らかい肌ざわりの湯に細かい気泡が相まって、優しさに包まれる感じ。上を向けば、四角く切り取られた青空。ポカーンと見上げていると、幸せ感がじわじわと湧いてきた。久しぶりの温泉に満足し帰路につく。
 かつてなじみだった場所の現在の姿を確認できてよかったと思う。なくなったのは残念ではあるけれど、自分の目で見てモヤモヤが晴れた。
 スッキリした思いで乗った電車の中で、至近距離にもう一軒温泉銭湯があったのを見つけてしまった。「浅草天然温泉 堤柳湯」は2022年4月に天然温泉の資格を取ったばかり。ここもかねてより使用していた地下水を調べたら、温泉に該当することがわかったという。もしかしたら、台東区の地下水を使っている銭湯は、けっこうな確率で温泉なのかも? 
 ポンコツな取りこぼしは、久しぶりの散策だったゆえか…。近いうちに再訪しなければ!

温泉達人会 会報2022 vol.16掲載の「思い出ぽろぽろ ―温故知新のひとり旅―(吉田京子)」より、前半部分を抜粋再編集で掲載
※情報は会報掲載当時のものです。


創業80年を誇った水月ホテル鴎外荘


築130年以上の鴎外旧居


鴎外ゆかりの舞姫の間


大好きだった鴎外温泉で最後の入浴


六龍鉱泉跡は広い更地に…


路地の奥が蛇骨湯跡地


在りし日の浅草観音温泉


今はなき浅草観音温泉の昭和感Maxな入口


あしたのジョーの等身大オブジェに遭遇


スカイツリーを望む湯どんぶり栄湯


湯どんぶり栄湯の粋な入口